いわゆる「ベルカント」の人たち(1)~ロッシーニ
19世紀前半にパリで流行っていたのは、いわゆるベルカントのオペラということになります。俗にこのジャンルに括られるのがロッシーニ(1792-1868(ただし最後のオペラは1829年の「ギョーム・テル」)、ドニゼッティ(1797-1848)、ベッリーニ(1801-1835)。
まずはロッシーニ通りをご紹介します。
ロッシーニ通りがあるのは、9区。オペラ座の東の方です。大体東西に走りますが、東の端で直角に折れ北へ向かいます長さは263メートル、幅は9.74メートル~11.69メートル。幅に幅があるのは、もともとは1704年にできた袋小路(東の端で北に向かう部分)と1784年にできた通りが1847年に一つとなったからでしょう。その時の通りの名称は rue Pinon このピノンというのは、Pinon de Quincy という人の館がこの通りにあり、そこからとられたのですが、その名前は1847年に新たについたのではなく、1784年当時からの名称が継承された、と言うことです。ロッシーニ通りに改称されるのは1850年。
ちょうどこの看板が掛かっているところは東西の通りの中程に当たり、「ロッシーニ」というカフェがあるのですが、西半分を望む写真がコレです。
で、このPinon de Quincy という人はpresident だったんだそうですが、1784年と言えばルイ16世統治下。このpresidentというのが、どういう地位に当たるのかはよく分かりませんが、政治家だったんでしょうね、きっと。識者のコメントをお願いしたいところです。
そして、1847年と言えばルイ・フィリップの7月王政の末期、翌1848年には7月革命が起こって王は退位、第2共和制が始まります。で、ここからは想像ですが、1850年のロッシーニ通りへの改称は、(前の想像が正しければ)アンシャン・レジーム下の政治家を通りの名前として戴いているのはまずかろう、ということが理由ではなかったかと思うのです。
で、なぜ、ロッシーニ通りかというと、この通りには現在のオペラ座(ガルニエ)ができる前のパリ・オペラ座(正確に言うと間に2年間仮のオペラ座がありますが)だったサル・ペルティエ(1820~1873)があったからでしょう(といっても17世紀以来オペラ座は何度も何度も引っ越しており、オペラ座という興業団体が使っていた建物、という方が正確かもしれません)。サル・ペルティエの北側が面していたのは、先ほどの写真でちょうど切れている左側の部分(白い幕が掛かっている工事中の建物の手前くらい)に当たります。この建物では末期に爆弾テロがあった挙げ句、火事で焼失してしまうという最後は不幸な歴史をたどるのですが、それはロッシーニ通り誕生の20数年後の話です。
1850年と言えばもう新作オペラは書いていなかったロッシーニですが、オペラ界の大立て者だったのでしょう。名前がとられたくらいですから。しかし、今だったら生前に通りに名前がつくというのはまずは無理ですが、まあ、引退のような生活だから良かったのか、それともそれだけ人気があったのか。生きている人出も当時はどんどん名前を通りなどに付けてしまったのか。今後の研究課題(笑)です。
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