日常と非日常(1)
地震が起きてから1,2日は音楽を聴く気が起きませんでした。
それは、被災者の方に申し訳ないから自粛するとかそういう意識的なものではなくて、どうにもそういうことをしている自分の姿が想像できなかったのです。こういう時こそ日常の生活を続けることが大切とは思いながらも。
それはともかく、今、東京では多くの音楽会が中止となっています。理由は様々でしょう。電力不足、交通の不如意。そして、その中には「東北、北関東で大変なことが起きているのに音楽など聴いている場合か」という意見への配慮もあることでしょう。また、これに対するに「こういう時だからこそ元気を出すために普段どおりに催しを行うべきだ。それが元気の素になる」という考えもあります。
ワタクシは、原発事故の影響が最終的にどの程度の範囲に広がるのかがまったく分からないし、電気の問題もあるので、少なくともこの数日は音楽会など開くのはどうかと思います。それらの問題について見通しが立ち、そして、被災者の方も含めて多くの方が生存の危機を脱したと言える状態になったとき、音楽の出番がやってくるのだと思います。現地にせよ、東京にせよ。もちろん、個々の人がそれぞれ音楽に癒される、というのとは別の話として。で、その時もきらびやかな照明の下ではないのですが、ワタクシのイメージは。
今日の段階では、プロ野球セ・リーグの開幕について関係者間の意見が分かれています。大きく言って、球団側は予定どおり、選手側は延期、というように見えます。こちらについても電力などの問題があって、ナイターなんかどうなのよ、と思いますが、それとは別に、色々な人が意見を表明する中で、「野球選手は野球をするのが仕事。それによって復興に貢献するのが筋」という言葉、また、「野球選手といっても選手である以前に人間、野球以外にもするべき事がある」という言葉が目にとまります。
人間は社会的な動物で一人では生きていけません。弱いものだから支え合って生きていく。一人一人は社会の構成員としてそれぞれの役割を持つことになります。そしてその役割の一部分が職業です。野球選手とか音楽家とか会社員とか魚屋とか。ところが、現代社会では分業がとても進み、職業に専念する必要が生じていて(その方がある意味で「効率」が良い、たぶん)、職業以外で本来皆が持っているはずの別の顔が見えなくなって、職業=社会での役割と思い込む傾向があります。
確かに、日常の生活の中では、活動している時間のかなり多くの部分が職業に盛れる場合が多いのですが(そのこと自体も問題ですが)、こういう非日常の時こそ、自分が社会で果たすべき役割というのは何かということを考えて行動する場面なのではないかと思います。もちろん、考えた結果が「仕事に専念」ということもあるでしょう。ボランティアとして現地の復旧の手伝いをする、というのもありでしょう。そこはその人の置かれた状況と、それから人それぞれの考え次第です。
そう思ってみると、「野球選手は野球をするのが仕事」と言い切るのは正論のようでいて、実は狭量な考えのように思われます。
日常の中でも、職業は社会での役割の一部分であるということを常に忘れずにいたいものです。こういう非日常こそがそれを思い起こさせる機会となるのでは、と思います。ま、こう言いつつも現実の生活では難しいんですけれどね。
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