大瀧詠一の死に思う
大晦日に流れた大瀧詠一の訃報は、ショックでした。65歳、早過ぎます。
ワタクシ、ここ何年もカラオケでは多分9割は彼の曲を歌ってきました。恋するカレン、A面で恋をして、冬のリヴィエラ。。。
出会いは松田聖子の『風立ちぬ』(81年10月発売)でした。衝撃的でした。ゴージャスなアレンジ。中学の頃からクラシックを中心に聞いていて、もちろん、当時(ちなみにワタクシは1960年生まれです)のアイドル歌謡などには人並みに熱心でしたが、ロックとかポップスとかあまり聴かずに過ごしてきていたのでした。だから『ロング・バケーション』(81年3月発売)も知らなかった。
それにしても、『風立ちぬ』を聴いたら『ロンバケ』に手を伸ばしても良さそうなものなのに、何故そうしなかったのでしょうね、、先に手に入れたのは『イーチ・タイム』。これは発売の翌日、84年3月22日に買っています。
でも、当時の記録(笑)を見ていると、『チェリー・ブラッサム』と『夏の扉』は発売(それぞれ81年の1月、4月)されてから日をおかずに買っているのに、『白いパラソル』と『風立ちぬ』は買っていません。何故だろう。その後の『赤いスイトピー』(82年1月発売)以降はシングル盤もアルバムも松田聖子の「引退」までずっと買い続けているのに。
だから、『風立ちぬ』をちゃんと聴いたのも案外時間が経ってからなのかもしれません。
さて。
84年の10月には『ナイアガラ・トライアングルvol2』を買ってるんですが、その後、『B-EACH TIME LONG』は85年8月に入手するものの、相変わらず『ロンバケ』は持っていませんでした。その代わり、佐野元春をよく聴いてましたね、この頃は。そんな気がします。
そうなると、さっき「衝撃的でした」なんて書いたけれど、実は、大瀧詠一を本当に好きになったのは、もっと後のことかもしれません。記憶を作っているのかな。。。若者(といっても既に20代半ば)は佐野元春の方が気に入ったのかもしれません。でも、佐野元春を知ったのは「ナイアガラ・トライアングルvol2」で、それは大瀧詠一からいったわけでして。
並行して、中島みゆきも一時期ははまっていましたが(今でも好きです)。
『冬のリヴィエラ』は一番早くにカラオケのレパートリーとなりました。というか、若い頃は圧倒的にオジサンたちとカラオケに行くことになるわけで、そうすると、松田聖子とかキャンディーズとか、やっぱり歌うわけにはいかなくって(『津軽海峡冬景色』も評判は芳しくなかった。←ワタクシの歌が、ということではなく、選曲的に)、まあ、『冬のリヴィエラ』はそうはいっても森進一だから許された、みたいな。歌った回数は100や200じゃきかないだろうなぁ(←適当に言ってます)。近年は、そんな気を遣う必要もなくって、逆に、一緒に行く若い人には未知の曲であろう『恋するカレン』とか歌っちゃってます。でも、たまに、なんでキミ、その年でこの曲よく知っているの?なんてこともありますが、まあ、カバーされているという以上に、ある程度エバーグリーンになっているんだろうな、と嬉しく思ったりします。
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大晦日のお昼のニュース、自宅の階下のテレビから「・・・大瀧詠一さんが、東京都瑞穂町の自宅で・・・」とか聞こえてきたときには、思わずダッシュして「嘘だろ」と叫んでました。よく「心にぽっかり穴が空いたような」って比喩を使いますが、まさにそれでした。心の震えが止まらない感じ。そして、松田聖子や大瀧詠一の話とかよくした友人と、FBでメッセージを何往復かしました。
実は、このエントリーを書き始めたときも、そういう喪失感のことを書こうと思っていたんです。最近は新曲も本当に出てこなくなっちゃって、でもたまに出てくるラジオは本当に面白かったけれど、それらがもう無いのはとても寂しいこと、みたいな感じで。
でも、書いているうちにご覧の通りです。
それだけ、大瀧詠一はたしかに自分の何かの源になっているということを再確認することになったのは、看板に偽りなしでした。合掌。
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